伊達政宗 歴史館
松島瑞巌寺の近くにあります
伊達政宗の生涯を蝋人形で表しています。非常によくできています
伊達政宗の騎馬像が入り口に飾っています。 別コーナーにはみちのくの偉人の蝋人形も展示しています。
伊達政宗は奥州の名門伊達十六代輝宗の長子として米沢城に生まれた。母は山形城主最上義守の娘義姫。
幼名は梵天丸。五歳の時疱瘡を患い右眼失明、その風貌故に生母にもうとまれ子供心にも辛い恥じらいの毎
日だった。
このコンプレックスは正宗の生涯に強い影響を与えた。
正宗の誕生 左が梵天丸(正宗)後ろが弟小次郎
母親は正宗をその容姿ゆえ可愛がられなかったようだ。
弟はは端麗な顔立ちで可愛がられたと言われている
父親は正宗を早くからその才能を見出し虎哉禅師の教育にあった。
剣術は片倉小十郎を相手
正宗が和尚に尋ねる人を救う毘沙門天がなぜに怖い顔をしているのじゃ
正宗13歳、元服して三春城主 田村清顕の息女正宗15歳 父輝宗に従い初めて戦陣に臨んだ
愛姫と結婚
左が正宗、右が父輝宗 正宗18歳 父輝宗の信頼と熱望により伊達の家督相続を行った。
正宗19歳、二本松城主、畠山義継の謀略により惨殺された。
一大痛恨事これより正宗の性格は一変し逞しい武将に変貌していった。
正宗は父の死に大声で泣いたと言われる。 親の仇敵をと正宗は二本松城を攻略。
それほど父を尊敬していた。 人取橋に戦った正宗の生涯で最も激しい戦さであった。
次に年来の宿敵芦名氏(会津)を摺上原で破った。
遂に奥州一番の二百万石大国を作り上げた。これは秀吉、小田原の北条に次ぐ大国であった。
秀吉の治下にあった芦名氏を滅ぼした事は秀吉の激怒を買った。が正宗は隣国をを攻略することは
戦国のならいと、うそぶいていた。
秀吉に臣従して小田原に参陣する事は、正宗の反骨精神が許さない。それと戦うべきか、否か、議論も
二つにわかれたが、正宗は天下を洞察し、秀吉の武力の強さを理解し、断固小田原行きを決意した。
小田原出陣の前日、母保春院が正宗の毒殺を謀る戦国の悲しい習いに従って正宗をは止むを得ず弟
の小次郎を斬った。(母を殺すことは出来ない)
正宗は小田原に参陣、決死の覚悟で、髪を白水引で結び白装束で秀吉に謁した。こうして正宗は生涯の
第一の危機を突破し傘下に入った。右側が秀吉
天下統一を目指す秀吉は奥州処置は厳しかった。特に検地、刀狩りの断行は兵農分離していないみ
ちのくの民に世相大改革というほどの大きな衝撃であった。
秀吉によって取り潰しになった葛西大崎の浪人達と新参大名の酷政に悩む百姓が大きな一揆を起こした。
その裏に正宗あり、と蒲生氏郷によって、ざん訴された。
その弁明のために上洛を命じられた正宗は、金色の大きな十字のはりつけ柱を押し立てて入洛した。
この第二の重大な危機も、奇智に富んだ弁解と家康の口添えで助かった。
(正宗のサインには人ににわからないほどに針でしるしをつけてあるがこの書状にはないと弁明した
とのこと。これは家康が確認したとの家康の口ぞえがあったとされる)
歌会に秀吉の招待を受ける。 左が秀吉、右が秀頼(秀吉の長男)後の豊臣の家督を継ぐ
右の白装束が正宗、左が前田利家、 後に大阪夏の陣で家康によって滅ぼされる。
徳川政権が確立し、天下は太平になった。
領土拡張の為の他国への侵略は、もはや出来なくなった。正宗は今までの考えを一変させ仙台藩
の経営に努力しだした。
桃山文化の藩内への移植を計った。青葉城築城とその為に為に招かれた上方の技術者によって、
城下町の建設が行われた。
荘厳華麗な大崎八幡神社、薬師堂、瑞巌寺の築造が行われた。
領内の統治、農村支配の強化、産業の拡張等、現代の政治化経済人も驚くほどの近代経営を志した。
新領土となった北上川下流の低湿地を開発して美田を作る大土木計画は土木専門家の川村孫兵衛重
吉によって行われ、見事に成功
仙台は日本の米どころとなった。更に植林や製塩、鉱山開発、金属精錬、軽工業の発展、馬畜の奨励な
のも精力的におこなわれた。
後年、正宗はローマ法王に使節を送った。
大海を航行できる大船を自ら建造させ、使節、支倉常長をヨーロッパに送りローマ法王パウロ五世
に新書を提出させた。
大阪冬の陣で一旦和解が成立,徳川と豊臣方であったが徳川方により大阪城の堀が埋められ
、夏の陣がおき、遂に豊臣が滅びた。猛火に包まれた大阪城を見て正宗は感慨にむせび泣いた。
大阪夏の陣、秀頼、淀君が自害、豊臣家が終わりをつげ、家康の時代と移る。
大阪城から救出される家康の孫娘 千姫の救出。
勝たなければ滅ぼされる戦国時代、それを勝ち抜いて天下の三大雄藩の一つとなった仙台藩も、
正宗に片倉景綱、鈴木元信、茂庭綱元等の優れた多くの家臣があったからであった。
伊達正宗公の復元写真
伊達正宗公甲冑姿 下の写真は左が資料館、
正宗は武人であったが、教養の高い文化人でもあって詩歌、書、能、茶道にも通じた。
それは単なるたしなみに止まらず、藩の文化を高揚させることにもなった。
武人の正宗は一変して、偉大な政治家となった。
経済振興の達人として藩のために努めた。